宿根木とは
佐渡文化と宿根木
佐渡の文化は、俗に「国仲の公家文化」、「相川の武家文化」、「小木の町人文化」に大別される。国仲のそれは、中世の頃から配流の島となり、順徳天皇、日蓮、日野資朝、世阿弥など中央からの流人の影響で形成されたものである。相川と小木は、戦国時代から近世初頭にかけて、金山と廻船による商品経済への移行が佐渡を大きく変えて、金山直轄地の「相川」と廻船港「小木」を成立させた。
宿根木は、「小木の町人文化」形成に先駆けて、中世の頃より廻船業を営む者が居住し、宿根木浦は、佐渡の富の三分の一を集めたと言われるほど栄えた。やがて小木港が江戸幕府によって整備され、商業の中心が小木港へ移行すると、宿根木の者は、船主が先頭となり十数人の船乗りと共に、全国各地へ乗り出して商いを続けた。村には船大工をはじめ造船技術者が居住し、一村が千石船産業の基地として整備され繁栄した。
その時代の集落形態が今日見られる宿根木の町並みである。村を流れる称光寺川と平行し、数本の小路が海へ向かい、それに面して家屋が肩を寄せ合い建っている。約1ヘクタールの土地に110棟の建造物を配置する高密度である。建物の外壁に船板や船釘を使ったものもあり、千石船の面影をしのべる。宿根木集落の特徴は、家屋の密集性にある。
主屋のみならず、納屋、土蔵が林立する様は、廻船による栄光とその衰退、出稼ぎと農林漁業への転換という歴史を映し、建物の利用の変化を見せてくれる。質素で静かなたたずまいを保つ宿根木の町並みも、一歩家の中へはいると目をみはるものがある。 公開施設となっている「清九郎」家のごとく、くぐり戸をはいった土間は、広くゆったりし、それに続く「おまえ」(居間)は、イロリを中心に広々している。また、赤黒く輝く溜塗りの柱、板戸、天井など、単に贅をつくしたとは言えない文化の積み重ねと生活の工夫のあとがうかがえる。
宿根木の村へ入り、そこに身を置いた時、忘れかけていた集落の機能、捨てようとしても捨てきれない文化の重み、いつまでも持ち続けたい家と家族の絆。そんなことがゆっくりと、そして静かに語りかけてくる。
建物の特徴
宿根木の建物は、古くは平屋だったものを、階高を上げ総二階とすることで、接客空間を増やし、人が集まれる座敷を造ることを意識して体裁を整えていった。船持ちのような実力者がひとつの間取りを完成させ、次第に村内で取り入れられ流行していったと考えられる。
これには、屋敷地の狭さといった立地条件や、海とともに暮らす生活条件などさまざまな要素が関連している。
宿根木は、1ヘクタールほどの狭い谷あいに家屋が密集しているため、ほとんどの建物が総二階建てとなっている。外観は日本海から吹き付ける潮風から建物を守るため包み板と呼ばれる縦板張りとなっている。簡素な外観とは対照的に、内部は漆をふんだんに使うなど豪華な造りとなっている。
主に道具蔵として使用される土蔵は集落に26棟が現存し、一部に三階建ての土蔵も見られる。漆喰塗りの土蔵も全てサヤと呼ばれる杉板で覆われており、その多くが千石船で繁栄した幕末から明治にかけて建てられている。
屋根は、かつては石置き木羽葺きであったが、江戸時代に石見瓦が、昭和30年代に能登瓦が廻船で運ばれた。現在、主屋や納屋の屋根約40棟が石置き屋根に復原されており、特徴的な景観のひとつとなっている。
様々な間取り
宿根木には町場で見られるような通り土間形式の建物は1棟も見当たらない。江戸時代になると人口流入による戸数の増加が進み、密集していったため、独自の間取りが造られると共に、様々な間取りが混在する形となっている。一階は、土間(ニワ)、ダイドコロ(カッテ)、囲炉裏のあるオマエ、ナンド、ザシキの順に配置される。二階は、オマエ上部は吹き抜けとなっていて、オオニカイとコニカイがトオリニカイ(通路)で繋がれており町屋造りの影響も受けている。
江戸中期になると、客をもてなすため二階に床の間のついたオオニカイ(ザシキ)を造るようになる。そのため、当初は平屋であっても増築で柱を継ぎ足し二階建てとしている家屋も見られる。平入りで前にナンド(寝室)を持つ形式から、次第に後ろにナンドを配置し、より「個」の空間を確保する形式に代わっていく。
宿根木の建物は、船大工が建てたといわれるが、その多くは、家大工が建てている。家移りや敷地の細分化は盛んに行われ、納屋を主屋、主屋を納屋にと転用を繰り返している。
これらは、日当りなど少しでも良い条件に移り住み、より快適な住環境を確保するためであった。今に残る伝統的建造物は、狭い谷に密集して暮らす宿根木の人々が考え出した智恵と工夫の証でもある。
宿根木のあゆみ
宿根木は海に向かって開かれた集落である。西廻り航路の寄港地であった小木港から南西約4㎞に位置する宿根木は、江戸時代中頃から明治にかけて、日本海を舞台とする廻船業の基地として栄えた。
当時の廻船業は、越後の米を西廻りで大阪へ運び、大阪で塩や雑貨を仕入れて北海道で売るといった速さではなく、多くの港に立ち寄りながら品物の価格差で商いを行う買積船であった。
この頃の宿根木には120戸500人ほどが集住し、十人余りの船主のほか船乗りや船大工らが居住した。そのほか、四十物屋、桶屋、紺屋、鍛冶屋、石屋といった様々な職種が集まり、廻船業に加え造船基地として発展し、今に続く町並みの基礎を形づくっていった。家屋が密集する宿根木には、海に面した浜と谷奥に2つの広場を設けいてる。ほとんどの家屋は敷地いっぱいに建ち、小路と呼ばれる路地と接している。小路の大半は海に向かっており、大浜と呼ばれる広場に出るようになっている。
これは、大浜がかつて千石船の荷揚げ場、造船場であり、長きに渡って遠く北海道や大阪へ通じる玄関口であったからである。
もう一つの広場は、集落を流れる称光寺川の上流、現在宿根木公会堂が建つところにある。この場所は、明治初めまで称光寺の末寺4か寺を含む境内地であり、のちに旧岬村役場や小学校が開かれた村の中心地である。今も集落の拠り所として人々が集う憩いの場所である。
この2つの広場を含む谷内と台地の高山、やや離れて東側の高台にある宿根木新田の3つの地区が千石船の航海を支える集落として形成されていった。以来、海に接する港近くが第一の土地として重んじられ、谷内、高山、新田と順に土地の優位性が生まれていった。
時代は下り明治末年、蒸気船や鉄道が現れ電信の発達とともに、宿根木の廻船は次第に姿を消していった。多くの者は海を捨て、横井戸を掘り、高台に田地を開いていった。船大工は仕事を求めて集落を離れ、宿根木は出稼ぎの村となった。今は60戸180人ほどが静かに暮らす半農半漁の集落となったが、かつての賑わいは今も集落の至る所にひっそりと息づいている。
柴田収蔵の世界地図
柴田収蔵は文政3年(1820)宿根木に生まれた。青年期には、幕末という歴史の転換期が迫りつつあることを敏感に受け止め、旺盛な向学心に燃えて江戸へ上り、苦学の道を進んだ。そして蘭学、医学、天文地理学を極めた。
その後幕府に士分けで奉職し藩書調所絵図取締役として、現在の国土地理院の仕事に類似した業務に携わった。鎖国政策の中で常に世界に目を向けた進歩的な学究態度は宿根木の先駆的人物として、今日も人々に尊敬され親しまれてている。
ちとちんとん(新潟県指定・民俗文化財)
宿根木鎮守の祭り(10月第2土曜日曜)に奉納される芸能である。そのむかし当村の廻船が長州山口県「つの島」の難所を通過する時、初めて乗船した若者が、初航海の習俗として船玉明神に奉納した安全祈願の踊りが「ちとちんとん」発生の起源だと伝えている。
「ちとちんとん」は、赤鬼と青鬼の舞、祭文読み、ちとちんと呼ばれる男役、とんという女子役、さらに笛、太鼓、拍子木のお囃子で構成されている。古代の伎楽に性的要素が誇示されているが、おおらかに、楽しく祭りを盛り上げている。
重要伝統的建造物群保存地区データ
- 選定日
- 平成3年(1991)4月30日
- 環境物件
- 108件
- 建築物
- 220件(うち伝統的建造物107件/工作物16件)
- 地区面積
- 28.5ha
- 選定基準
- 3.伝統的建造物群及びその周囲の環境が地域的特色を顕著に示しているもの
- 参考文献
- 宿根木村誌(1947)
南佐渡の漁撈習俗(1975)
宿根木伝統的建造物群保存対策調査報告書(1981)
宿根木の町並と民家Ⅰ・Ⅱ(1995)